[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。






夢を見た。記憶の夢だ。
この世に目覚めて直ぐ、扉を開けた。扉の向こうは桜の並木道だった。空は夜。薄紅色が逆巻く漆黒の夜空だった。石灯籠の常夜灯が千本並木を耿々灯し出す。
黒く深い夜には月もなく星もなく、頭上は覆い尽くす薄紅の花弁。灯籠の火の揺らぎに空も景色も妖しく揺れる。一条伸びる石畳の道の両側を桜の巨木が居並び、等間隔に石灯籠が据え置かれていた。
ふわふわと記憶は朧げだが、しかし足元が揺らいだ覚えはない。真っ直ぐに歩いていった。やがてそして。
二人に出会った。
この道で出会ったのだ。一人は緋色、いま一人は蒼白。
緋色の女が告げる。
「この先に鬼がいる。気をつけなさい」
蒼衣の男が告げる。
「鬼の首は然し取ってはならぬ」
女は言う。
「鬼を退けるには音、詞、そして名を知ること」
男は言う。
「鬼の名を取ってはならない。鬼の名を知ってはならない」
二人はミクに告げた。
「鬼の名は」
「彼女は」
指差し示される。千本桜の並木の向こう。
怪しの夜の世の、昔の夢。  






一 大路を東へ巡り、天神坂下






春であった。
日はのたりと中天を過ぎる。千本並木の方から風に乗った花弁が、薄青い空に流れてきていた。花弁乗る風に、さらに袖に桜を翻し、少女が大路を東へ行く。愛車のペダルを踏みながら、花霞の空にぷりぷりと悪態をついていた。
少女は制帽、袖翻る腰丈の着物には肩章とひと目でその権威を知らしめる。長い翠髪を耳の後ろの高いところで二つに結び、袖と共に春の景色に棚引いて翻した。彼女の名をミクと言う。ミクは環状に敷かれた大路を東へ、知己の家から知己の住まいへ向かう途中だった。
大路とは言え舗装は御通り用の中央と二両列車の通り道だけ。端は露面のままだった。儀式ともなればミクもそこを通るのだが、平生にそんな目立つのは御免だ。ついでに言うなら横を列車の通った日には煽りを食って面倒になりかねない。そうなればあの青眼の将校が、きっとこの春もう何度目かの大旋風(つむじ)を起こすのだ。
眉目秀麗、端正な冷眼をふと思い出し、ミクの心中は再び煮え立った。思い出される白皙は身長差で以て見下ろして、いかにもミクの思慮が足りないとばかりに口角上げる。甘やかに微笑めばころりと落ちる婦女子もあろうが、ミクにはどうしてもそうならない。その口にするのが如何な正論とは言え、態度がどうしても癪に障った。兄分とは言え許し難い。並みならかち割れる勢いで頭上に大幣の一閃落とし、涙ながらに捨て台詞を投げて、彼の私邸を飛び出したのが半刻ほど前のこと。ハンドルは自然と姉分の元へ向けられた。
ペダルをこげば、愛車は路地のデコボコに揺れながら車輪を転がす。姉分の居所までもう、直だった。
路地はやがて細くなり、黒塀が続くようになる。細く曲がりくねった道の塀の陰に隠すように店構えを開ける街並みになり、時折行き交うひとのミクを見る目が胡乱になる。場違いと言わんばかりだ。その小路を抜ければ、不意に。
道はまた大きく開けるのだ。
問屋街も斯くやと言うような大店が両脇にずらりと構え、見せ格子を張っている。昼日中、時刻が故に朱塗りの格子に並ぶ白塗りの顔は少ないが、そこは紛れもなく遊侠街だった。少女の形(なり)をしたミクの来るところではない。
けれど構わずミクは愛車をこいだ。通りに一際大きな構えを建てる見世の前につける。表から暖簾を上げると、渋い顔をした老女が応じてきた。
「構いませんがね、せめて裏戸を叩く気遣いを見せておくれじゃありませんか。御宮様にこうも出入りされたんじゃ寝覚めが悪い」
ミクはにこりと微笑んで答えた。
「うん、ごめんなさい。椿の姐さんはお部屋?」
懐から出した包みを渡す。重さだけでわかる金額にまた、老女は渋い顔をした。相手が花魁とは言え昼見世の時間を買う代金にしたら少々多いだろう。けれどミクにしてみたら、彼女への心付けとしていっかな足りない。老女の心中はきっと半々だ。自身の城郭である店で勝手な振る舞いをされることへの不満と、上客の来訪の喜びと。勝手知ったる楼閣を、ミクは袖翻し軽やかな足取りで階上へ向かった。
見世一番の大広間を一声で開ける。中にはふかぶか、指をついた女の姿があった。
「よう、おいでなんした」
ミクの顔が綻ぶ。
「姉さま久しぶり!」
儀礼などはもう万里の向こうに投げ捨てて、ミクは後ろ片手に襖を鳴らした。いそいそ歩み寄る。ゆるり上がった女の面には、やわらかに緩んだ雀色の眸の苦笑があった。
「もう……せめて来るなら知らせてからにして。驚くでしょう?」
ミクがどんな無礼を下げて現れても、最初の挨拶だけは廓の礼儀を重んじる。姉分の生真面目さを語るようで、ミクはまた一つ、うんと頷いた。
「ごめんね、姉さま」
帽子を脱いで片手にしながら、姉のその白い頬に触れるくらいにまで寄った。膝の上に重ねられていた手がミクに向けて広げて伸べられて、紅をさした大人の女が微笑した。
「おいで。どうしたの」
ミクは躊躇わず傍の畳に膝をつき、広げられた懐に身を寄せた。前帯に乗るようになりながら腕を巡らし襟足に頬寄せる。肌と白粉の匂いがした。
耳朶に甘やかな声が吹き込まれる。
「また、カイトと喧嘩した?」
その音に、一度怯む。ミクだって別段呼べるのだが、未だすんなりと口に乗せる自信はない。答えやしなかったのだがその気の揺れなんて、お見通しだろう笑声がころころと鳴る。気恥しさはあるが、恨みがましくはなれなかった。
優しい掌に背を撫で下ろされ、長い髪を細い指が梳る。話して、と囁かれてそっと身を離した。その体躯は温かかったし、やわいし優しいし良い匂いがして、離れたくはなかったがそのまま話も出来やしない。惜しみながら離れると、見通すような穏やかな赤茶の眼差しがあった。こくり、頷く。
板硝子の張られた窓は開いていて、高欄の向こうから春風は吹きこんでくる。軒の低い造りだから部屋は春の昼から影を射してにわかに青い。ミクが座り直して語り手の姿勢を取ると、姉は隣室に向かって手招いた。彼方に倣って付き人もあるのだが、それらに使いを頼んだりは滅多にない。ミクが見たことがないだけかもしれない。面倒で、と姉は嘯いている。
掌ほどの小鬼が襖戸を開けた。姉分の使役する眷属だ。ぺこりと一礼する几帳面さは姉に似て、五人ばかりでせっせと茶器を運んでくる。一番大きい膝丈ほどのが運んでくる鉄瓶を、姉が火鉢にかけるのを見ながらミクは今日半日ほどの出来事を話した。
ミクは今日、ここ数日考え込んでいた案件について、兄分のところに相談に行ったのだ。だが素気無く追い返されたのは先述の通り。そこを話すに至ってぷくりと頬を膨らませた。
「だってとても良い案だと思ったの」
ミクは勧められた茶に唇を濡らしながら言い募った。
「これまでは呼ばれて仲裁に入るばっかりだったけど、それで良いはずがないって思うの。だから」
募る言葉に、身動ぐ衣擦れの音がした。姉の纏う豪奢な着物は、隠密を許さない。小首傾げただけで金鎖を縒るような音がする。
「そう、ねぇ」
姉は部屋の端に目を遣りながら、含む声だ。見守る眼差しの先で、どことなくよろよろした雰囲気の小鬼が懸命に茶請けを運んでいる。大豆が根と芽を生やしたような小鬼だ。
姉の視線がこちらを見ていないこともだが、その返答が快哉の許諾でないことにも少し気落ちをしていた。俯きがち上目使いに見ると、気付いて視線と袂を抑えた白い手が伸びてきた。頭を撫でられる。
「私は蒼と同じ意見だわ」
宥めるような、その眼差しの色。本当はわかっていた。
ふたりとも何よりミクの身を案じてくれる。市中見回りをしたいなんて喜ぶはずがない。長く行方をくらませていた姉の所在を知り、ようやく訪ねた時もまず最初は小言だったのだ。少女一人で来るところではない、自分の身の上も理解できないならあまりに子供だ、と。生死も知らせないまま行方知れずになる方が悪い、と泣きながら地団駄を踏んで許された。
もう来ない方がいいとも言われたのだが、どうしても会いたい最後に一度だけを数度繰り返し、今の位置を勝ち取った。夜はさすがに大きな客が入るから決して訪ねやしないが、昼の来訪者としたら店にも顔は通っている。それでもそりゃあいい顔はされないのだ。
ミクが今の都を支える楔の一柱だから。
「でも、また門が開いたの。彼方からのおとないは増えるばっかりだし、私だって何かしたい」
ミクが目を覚ました時、千本並木は一条だけだった。それがまた一条増え、もう一条増え、今はいかばかりか数え知らない。長く閉ざされていた都だったから、おとないは軋轢も生んでいる。
艶やかな赤い唇がふうっと息をついた。
「もう。私たちが何言ったって聞かないんじゃない」
言われると、弱い。確かにミク自身、きっと二人の許諾がなくったってしたいと思えば成してしまう。それでも尋ねたのは、少し安心したかったからだ。
今朝見た夢を思い出す。二人が最初に、ゆく道を示してくれた。心安く進むために、その二人にこの道が正しいのだと認めてもらいたかった。けれどミクの身をこそ慮る二人の答えは、本当は考えればわかったはずだったのだ。
気落ちするミクに、先達でもある姉分はそっと乗り出して手を重ねた。ミクの膝の上、頑なに握られた拳に掌が重なる。
「いいわ。でもその代わり」
翡翠色の眸が上がり、雀色に合う。見据えた眼差しは確約を求めてきた。
「一つ、決してひとりでなさないこと。ふたりを連れていきなさい」
ふたり。人数でなく、定められたふたりのことだ。ミクには少し不思議に思えた。
彼女らはミクより年弱なのだ。確かに守護者として指導は受けているらしいが、それは兄分の意向ではなかったか。姉は反対しているものと思っていた。ミクのその内心を読んだのかもしれない。もう一つ、と言った甘い飴を更に煮詰めたような赤茶の眼差しは優しかった。
「私と蒼は何を措いてもあなたたちを優先する。危ないと思ったらきっと手を出すわ。いいわね?」
うんと頷いて、ミクはしかし気がかりだった。離れ行く掌を留めるようにそっと呼ぶ。
「ね」
得心した様子であった姉は軽く首を傾げた。年長で、この夜の街で弁天椿と呼ばれ仰がれる存在だ。それなのに気の知れた相手には、ミクにはどことなく幼く油断がある。
「それでも帰ってきてはくれないの?」
名を取られ、この楼閣に縛られている。それは知っている。それでももう充分に勤めは済んでいるだろう。足りぬならミクが、いや、ミクよりも先に彼が購うはずだ。
彼の姉を想うところは疑いようのないものだ。ミクが出がけに投げつけてやった、姉さまに言いつけてやる、を食った時の顔を見れば瞭然。脳天にミクの大幣を受けた時よりも悄然としていた。さすがに百戦錬磨と謳われる将校はすぐに表情改めて、好きにしろ、と冷笑を投げ返してきたが。
「兄さまだってきっと待って」
「ミク」
急に名を呼ばれたことにびくりとする。見返れば姉の人差し指がミクの唇に触れてきた。
「言わぬが、花」
微笑は艶然と。ミクが言葉を呑むと指は離れていった。
構わないのだと姉は言った。必要とあらばこうして会えるのだから。
それでもミクにはやはり、どことなく哀しい。きっと姉も、兄を心憎からず想っている。
彼らが自分たちを隔てるような真似をしている理由を、ミクは知らない。訊ねたこともあるし、問い詰めようとしたこともある。だが姉にははぐらかされるし、兄はあからさまに回答を避けてきた。
眉尻を下げ上目使いに不満げなミクに、姉はふっと目元を緩めて立ち上がった。小鬼に屏風を広げさせ、自分は窓を閉じる。
窓枠の引き手に指をかけ、振り返って笑みを妖しくした。
「遊んで行く?」
背後に昼日を背負って艶色が陰影を帯びる。ミクは勇んで頷いた。