二 御宮の乾、天狗の根城






湯船に沈みかかって、はっとした。顔を上げた勢いに毛先が滴を撥ねる。しんと明るい浴室を見渡して、カイトは息をついた。
蒼く濡れた髪を掻き揚げ肩を沈め直す。浴槽の縁に頭を乗せて天井を仰いだ。深い木目を刻んだ天井板が湯気から結んだ露を滴らせている。煙出しの小窓から射し込むのは白い朝の陽だ。街角には朝餉の香る時刻だが、カイトはひとっ風呂のあとは昼まで寝入ろうと考えていた。昨日は宵っ張り、この私邸に帰ってきたのがつい先程だったのだ。
天井に向けて一つ、欠伸をした。軒を掠めて射す白い光を青い眸が薄く見遣る。ふと、愚にもつかない考えが脳裏をかすめ、自嘲が湧いた。
彼女ももう眠りについた頃だろうか、などと思わせたのはついさっき見ていた夢だ。歪んだ笑みが湧くのを感じて、カイトは湯に顔を沈めた。こんな湯船の転寝で夢を見るなんて、思うよりも草臥れているのかもしれない。さっさと布団に転がろう、と思った。取り返せない夢など見ぬように。
頭まで沈んで、浮き上がる。犬のように頭を振って水気を散らし、気を入れ替えた。
風呂を上がろうと湯船のへりに手をかけた。身を浮かせ、そこで一連であるべき動作がふと、止まる。廊下に騒がしい気配がしたのだ。そして板張りを踏みならす足音。その音で誰何の必要もないほどには身内のものだ。年弱の妹分。
「兄さま、お話があるの!」
がらりと引き戸が開いて、少女の姿が現れる。朝からきちんと身を正した装いだが、行いは全くもってそれに比してはいない。勢いよく全開にされた扉の向こうで、翡翠の色の眸がカイトの上半身を捉え、やがて丸く開かれる。
カイトは慌てて湯に身を沈めた。いきなり開けるやつがあるかと嗜めようとしたのだが、かなわなかった。先に声が響いた。少女の絹を裂くような悲鳴だ。悲鳴は浴室によく反響した。次に長柄に花弁を連ねた大幣が、一直線に飛んできたのだ。額で受け止めて仰け反り、くそ、とカイトは毒づいた。
「兄さまの助平!」
お前が言うのか、と思ったがとりあえず、さっさと出て行け、と促す方を優先した。凶器の幣を投げて返す。掌に受け止めると妹分は長い髪翻し、足音鳴らして去っていった。
ああくそが、とカイトは額を抑えながら天井を仰ぐ。弟、妹、それにもう一人の妹の躾は、彼女に任された重大事だと言うのに。
こんなお転婆が彼女に知れたらうんざりされる。そりゃあ私が言えた義理じゃないけれど、ときっと哀しい顔をする。
「ああ、儘ならねぇな!」
水面を拳で叩いて撥ねさせ、カイトは湯船を出た。布団に転がるのは今しばらく後だ。着替えようと思っていた寝間着を放って、脱いだばかりの袖に手を通した。栄華を極める都に睨みを利かせる縹の青色だ。不肖の妹を最大限に威圧してやろうと、ついでに制帽も頭に乗せた。
応接間も兼ねる書斎へ行くと、妹分が背中に怒りを湛えて待っていた。座布団にちょんと正座をしているのだが、膝の上の手に拳、肩をいからせているせいで背を丸めその背に燃え立つような怒気が見えるのだ。カイトが戻ってきたことに気付いていないはずはないだろうが、振り向かない。それもまた腹に据えかねているのだと見せる姿勢のためだろう。
呆れた。カイトはその横を通り抜けがけに頭のてっぺん、二つ結びの真ん中辺りにぽかりと一つ落としてやった。翡翠の眸は丸く見開かれて見返してくるのを無視して、主人の席にどっかりと腰を下ろした。胡坐の膝に片肘をつき、頬杖する。
「男が入ってるとわかっている風呂を開ける莫迦がいるか」
見遣った妹分は頭に両手を遣って抑え、目には驚きと涙が張っていた。横柄な態度に、幼く染まった頬をぷくりと膨らませる。
「兄さまが悪いんだから。下働きの一人も雇わないで、だから取り次ぎもできないのに」
ぷいとそっぽを向いた妹分の言葉に双眸が細まる。青い眸の炯眼は瞬間のことで、幸いに目の前の少女にも気取られることはなかった。カイトは小さく安堵して、吐き捨てるような笑みを浮かぶ。
「一人でも入れりゃあ、それで小姑みたいに家に居付けの何の彼のと言われるんだろう。真っ平だ」
勝手気ままが身上と嘯けば、部下や弟妹、身近な人間なら余計に呆れて放り出す。隠しもしない悪所通いも相まって、程々になさってくださいと言われるのがいつもの落ちだ。妹分にしても、ほぼ身内とは言え異性の裸体に悲鳴を上げる初心な年頃。一人と定めない兄分に不潔を感じているだろう。カイトはそう思っていた。
翡翠色の眸は返り見て、やはり不満げだ。理解させようとも思わない。それで、とカイトは用件を促した。
「朝も早くからやってきて、随分大した用事なんだろう?」
大上段に構えて言えば、不満げながらも姿勢を改めた。膝を揃えて座り、翡翠色の眸が射って見る。ああ、とカイトは心中に息をもらした。
平生には、どんなに甘えたな至らぬ稚い妹も、彼女と同じ始まりの数字を背に負う者なのだと。
「あのね、兄さま。私、これまでとはやり方を変えたいの」
それはカイトも思っていたことだった。しかし同意をおくびにも出さず、冷ややかな眼差しを青藍の眸に乗せる。翡翠の嘴の光るように閃く少女の眼差しは、冷眼を撥ね除けた。
「私も兄さまみたいに見回りをする。今までよりももっとちゃんと、都の治安を守りたいの」
口脇を下げて結んだ表情は頑なだ。少女の声は意志を固めていた。カイトは徐ら頬杖を外し、上体を起こす。身を起こせば、少女と成人男性の内でもすらりと高いカイトでは身長差がある。正座と胡座でも尚、見下ろせた。
敢えて上から視線を遣って、口角を上げる。
「それをされたんじゃあ、俺が郎党率いて都を大路から小路から見て回ってる意味がなくなるだろうが。それとも何か? 市中警護の一切合財、俺に代わってくれるのか」
妹分の言わんとするところが、そこにないことはわかっていた。カイトと眷属が警護警備を請け負っているとは言え、その実は力で力を抑えつけているに他ならない。妹分の例えば桜の大幣のように、退魔の力を持つ何かはないのだ。
だからこそこれまでも、一番の大事にはいつもこの少女が呼ばれていた。このまだ小さな娘の手が必要だった。
「私ひとりで全部できるなんて、そこまで思い上がってない! でももっと何か……できることがあるならなしたいの!」
言の通りに。
初めからその手が大幣を振っていれば、都の安全はいっそう守られることだろう。少女の安全と引き換えに。
「どこが思い上がっていないんだ。自分の身一つ、顧みることもできないくせに」
身に宿る稀有な祓いの力と共に、少女自身がこの都を支える大きな柱なのだ。守られなければならない大切な存在だ。そしてそれ以上に。
大切な妹が傷つけば、彼女はきっと哀しむだろう。ともすれば彼女が自身を責めるかもしれない。大切なものに重責を負わせてしまったと嘆くかもしれない。カイトはどうしても、それだけは避けなければならなかった。他にできることもないカイトには、そればかりは赦すことができなかった。
「これまでだって充分に手を出し過ぎなんだ。いっそ宮中で穏和(おとな)しく、謡いの勉強でもしていればいい」
彼女のように籠の鳥になっていろとは言わないが、せめて身の安全くらい自分で守ってくれればいい。白粉と紅で塗られた微笑をちらとでも、思い浮かべたそこに気の緩みはあったろう。追い詰め過ぎたと気付くのに、一拍、遅れた。
じわり涙の浮く。翡翠の色の眸がカイトを射抜き、あえかな掌がその傍らの幣を振るった。一閃であった。
花弁を連ねた桜の柄が脳天に落ちる。カイトがぽかりを落とした時には当然加減したが、怒り心頭の妹分に手心などあるはずない。渾身だったろう。目の前に火花が散った。
顔をしかめて額を抑え、ようよう見遣ると妹分は立ち上がり、今度はカイトを逆に見降ろしてきていた。眉尻を上げ、まだあどけなさの残る顔立ちながら明王の風格。くそ、とカイトは小さく毒づいた。
顔形でなくその空気が、どうしても似るのだ。彼女に。
そして。
「姉さまに言い付けるからね!」
捨て台詞まで投げつけて立ち上がる。ああ好きにしろ、とカイトが応えると、くるりと踵を返した。翻る、桜の花の袖とやわらかな翠緑の髪を残影にして、すいと出ていってしまった。ああくそ、と天井を仰いでカイトは呻く。
妹分が最後に何を投げてくるかなんてわかりきっていた。それでも彼女の話が出れば臓腑が跳ねてしまう。今からきっと、妹分は愛用の自転車で彼女のところへ行き、カイトの悪辣なのを語るだろう。もしかしたら彼女が取り成してくれるかもしれないし、可能性は低いだろうが妹分が彼女の諫言を聞き入れるかもしれない。何にしても妹分の口からカイトの直近が、彼女へと語られるのだ。
帽子を落とし、両手で額を抑えたまま畳に仰向けに倒れ込んだ。青い畳の目に、空の藍を縒ったような髪が散らばる。
「あー……儘ならねぇなあ」
歪めた口許に浮かぶのは自嘲だった。
妹の性分が言って聞くようなものでないなどとは百も承知。諭すのではなく撥ねつける言い方は、せいぜいこちらは反対しているのだと含めるのには功はあっただろう。だがここまで言う必要があったろうか。
彼女の手まで借りる必要があったろうか。
答えは出ない。ああもうこのままここで寝てしまえと目を閉じた。ふとさっきの夢を思い出す。
あんな夢は見ぬように。
もう一度彼女の夢を見るように。
どちらを願うともなく、どちらが本心か、カイト自身にもわかりはしなかった。  









夢を見た。つい先頃の、思い出と言うには近く、夢と言うにはあまりに確かな回想の夢だ。
春まだ浅い夜、カイトは茶屋の一室を借りきっていた。三寸開けた窓の向こうには夜の街、閉め切った襖には竹から生まれたお姫様の昔語りが丁寧な細筆で描かれている。気の合う仲間と三人、酒を酌み交わし、しなだれかかる女の頭を撫でる。友人連中は気に入りを連れてきていたから、程よく回ったところで別室にしけ込むだろうと思われた。
都と呼ばれる町だから、もちろん遊侠街はいくつかある。カイトの私邸から一番近いのがこの天神坂下に広がる新区街だ。ここには一番馴染みが多いが、彼には特定の誰か、というものがなかった。カイトの今夜の相方は、今この二の腕に頬を寄せている女になるだろう。
妓(おんな)が肩口に頬を乗せようとしてきたので、そっと避けた。困るのだ。女の化粧が移ってしまう。袖付け替えるくらいはどうにかしても、肩章を汚されたのでは堪らない。ちらりと目があったので、一つ瞬く間だけ、その本性を見せてやった。
一つ瞬く間の、冷笑。気付いたらしい妓もさすがに莫迦ではない。冷や汗隠して微笑み返し、銚子を取る仕草で身を離した。猪口を呷ると視界の端に、友人二人が目配せで肩を竦めたのが見えた。
宵はこんこん更けゆく。芸妓の弾く三味線に耳を傾けていると、三寸開けた障子の隙間から花が薫りこんでくる。並みなら酒と白粉の匂いに紛れようが、カイトには夜の風に乗るものは酩酊しようが嗅ぎ分けられた。甘い花の香りがしっとりと重い。夜明けには雨になるなと、唇を酒に濡らしながら思った。
ふ、と。カイトの耳がその足音を拾った。つい、口角が上がる。友人が眉をひそめる間もあらばこそ、腰も上げず身体を捩って襖のへりを引っ掴んだ。月の使者を描いた襖を、外しかねない粗暴さで引き開ける。室内の、友人連中が息をつき、その他が息を呑んだのがわかったが気にならない。
廊下にはゆったりと歩みゆく、娼妓の姿がある。娼妓とわかるのは纏う重たげな衣装から。だが同じその衣装から、今後ろにいる妓女連中とは格が違うのがひと目で知れた。彼女はカイトに気付かないはずがないだろうに歩みを止めない。はっと笑いを吐いて、その裾を取って握った。
「やあ、そこ行く天神様。俺と遊んでよ」
ただ前だけを見据えていた眸が、すうと下げられた。甘く煮詰めた飴の色の眸が、軽薄さも忘れて射った青藍の眸に降りる。ぱちりと火花が散ったようだった。白塗りに紅をさしたかんばせが、一つ瞬く間もないほどの刹那だけ、微笑んだと見えたのはカイトの願望ではないはずだ。
白い指先が服地を摘み、カイトの手から裳裾を取り返すように引き払われた。赤い唇を緩め眉頭を上げ、彼女の面差しが艶麗な女の貌になる。
「また、今度」
ついと前を向くと、あとは振り向きもせず歩み去り、突き当たりを曲がっていった。今日はきっと、別の男の腕に抱かれるんだろう。カイトは笑み捨て、天井を仰いだ。
「あー、振られた」
当たり前だ莫迦が、と友人が笑ってくれたから場は取り為せた。
莫迦の所業だなどと言うことはわかっていた。友人の助け船があることも、それで取り為せるということもわかっていたから、やった莫迦だった。
こんなことで本当に、彼女が手に返るならとうの昔だ。
すべては夢。春の夜の、紅い楼閣の上の夢。