赤い首輪の猫と黒い服の女の話



最後の客が千鳥足で大通りへ出ていくのを見送り、小さく息を吐いた。白い。明日は雪になる、という話であったけれど本当になるかもしれない。あの予報士は信用していないのだけれど。
閉店時刻はもうとっく。明かりを消していた看板に手をかけて、ふと、目がとまった。看板の陰から見返してきた眸があったのだ。澄んだ茶水晶の眸。美しい赤毛の、長手袋をしたように前足の黒い猫だった。大きな音は驚かすだろうか、と看板を動かすことをためらったが、猫は気取った仕草で手を舐め顔を洗う。
鷹揚なのが少し癪に触って、気にせず自分の仕事をすることにした。がたりと重い音が鳴り、猫は案の定、身を翻す。猫は三件向こうまで駆け去って、狭い路地で振り返った。
にゃあん、と一つだけ鳴いた。それが出逢い。





次の日猫は、客の足元をするりとくぐり、店の中に入って来た。少しむっとしたが、客の方が猫が好きだと言うものだから、愛想ついでにミルクと煮干しを出してやった。煮干しは食べなかった。代わりに客の皿からトマトのスライスを一切れかっさらっていった。客は喜んでいたが、彼の手からはとうとう受け取らなかった。どうせなら、ごろごろ喉を鳴らして懐いてくれれば良かったのに、そうすれば財布のひもも緩むから、と半眼で見ていると足元までやって来た。
「ああ、なんだ。やっぱり飼っているんじゃないか」
「冗談。こんな猫、知らないわ」
脛に体をこすりつけてくるのがこそばゆくて、足を払って避けようとした。猫は尚も長い尾を絡みつけてきて、茶色の水晶のような眸を細める。にゃあんと鳴いて、その喉には赤い革の首輪が巻かれている。毛並みも良いし、きっと別のところの飼い猫だろう。
「大方体の良い別宅にしようって腹でしょう?」
嘲って笑うと、そのあとは三日、やって来なかった。








そのあと猫は来たり来なかったり。特に近所付き合いもなかったのだが、ふと話の種にした時に聞いた話には、猫はどうやらこの店にしか寄りついていないらしい。野良ではないだろうと言われながら、けれど誰の飼い猫とも判然としない。猫好きが呼んでも、餌をちらつかせても一瞥くれるのがいいところ。飲み屋が軒を連ねる裏路地の、どの店にも上がり込んだりはしていないらしい。そんな話を聞いて帰ると、噂の猫が客用のソファで丸くなっていた。
「毛がつくじゃない」
不満もあらわ、声をかけると重たげに目を開けた。茶水晶の眸が一瞥、にゃあんと鳴いてまた閉じた。
「そりゃあ、まだ開店にはあるけれどね」
追い出そうかとも思ったが、週の半ばじゃどうせ客の入りは見込めない。開店の支度だけして、猫の隣に腰を下ろした。猫は、丸めた身体を解かずに、もそりと少し寄って来た。そっと手を伸ばしてみると、頬をこすりつけてひと舐め。ざらりとした舌が掌の親指の付け根のふくらみを撫でた。
「痛いのだけど」
猫は目を細め、笑うようににゃあんと鳴いた。








ある日少し転寝をしていた。カウンターに両腕を重ね、それに頭を乗せて少し寝ていた。ドアを開け、誰かが入ってきたと思ったが、眠っていたし陽も高く開店前だった。客があるわけはないだろうし、でなければこの店の戸を開ける者もない。薄目に開けてみたが、寝惚けていたのだろう。人影が見えた。
人はそっとこちらを覗き込み、指先で頬を撫でてきた。絹の手袋で包んだような指だった。風邪をひくわ、と言われた気がした。
「いいわ、別に」
起きるのが面倒で、また目を閉ざしながら答えた。だめよ、と言われた気もしたが、知ったことではない。不法侵入の癖に。
それから、幾らも眠りはしなかったろうと思う。陽はまだ高いままだったし、顔を上げ見渡した小狭い店は、何一つだって変わりはなかった。ただ猫が。
カウンターの上に丸まっていた。ぴったりと身体を寄せるようにして。
「やめてよ。貴女土足でしょ?」
眉根を寄せて見遣ると、猫は腹の下に巻き込んでいた四肢と尾を解き、しなやかに伸びをした。それからきれいに手足を揃えて座り、目を細めるとにゃあんと鳴く。
仕方ないから、トマトを切って出してやった。猫はうまそうに食べていた。






それから、店に猫の皿が置かれた。
猫のグラス代わりの小鉢が置かれた。
猫の寝床のために毛布が置かれた。
ある日やって来た客が笑った。
「ついに飼うことにしたのかい」
「飼ってないわ」
注文を聞きながら答えると、客は苦笑したが嘘ではない。猫は相変わらず、来たり来なかったりだ。ここで寝ていることだってあるが、たいてい毛布で寝てたりなんかしないのだ。
帳簿をつけていれば邪魔をするかのようにノートに乗ってくるし、転寝していれば必ずまとわりついて身を寄せてくる。
「猫なんてそんなもんだろう」
「知らないもの、猫のことなんて」
氷を入れたグラスを出して、ボトルを置く。ご相伴いただこうかと客の隣に腰を下ろすと、部屋の端の毛布で丸まっていた猫がやって来た。
目を細め、にゃあんと鳴く。
「ほら見なよ、飼い主を盗るなって言ってる」
「飼い主じゃないもの」
「じゃあ、恋人のつもりかもしれないなあ」
声を上げて笑う客に、これだから酔客はと半眼送る。猫はにゃあにゃあ鳴きながら膝に乗り上がってくるし、散々だった。






















ある夜、店仕舞いをしていると、猫がしきりと絡みついてきた。最近は作業をしていると聞き分けてか、おとなしく待っていることが多かったのだがどうしても離れようとしない。思えば今日は仕事の間中、ずうっとくっついて歩いてきていた。
「なあに、もう。そんな甘えられたって、ない袖は振れないの」
甘ったれてくるから、おまけに今日の客も猫好きで、甘やかしたいらしくて随分サービスさせられた。猫に。
猫の好きなトマトだってやったし、抱き上げて撫でてやった。まだ足りないと言うのだろうか。
ソファに腰を下ろすと、するりと膝に乗り上がってきて、こちらの顎の下にごしごしと頭をこすりつけてくる。チョーカーが首輪にかかって引かれて苦しいのだけれど、言っても通じるものでもない。
「ちょっと、胸に爪立てるのやめて」
言ったのだけど聞きやしない。猫はにゃあんと甘えた声で鳴き、やたらと身体を寄せてきた。
その次の日、猫は姿を消した。








猫は現れなくなった。
次の日も、その次の日も猫は姿を現さなかった。一週間も姿を見せず、看板の陰にそっとトマトを置いておいたりしてみたが、現れた様子はない。蟻のたかったトマトを捨てるのを見ていた客が、声を掛けてきた。
来たり来なかったりだったが、三日と空けたことはなかった。何かあったんじゃないのか、と言われたが知るはずもない。
「だってあの子のことなんて何も知りやしないんだもの」
どこからやってきたのか、誰に飼われていた猫なのか。
「ああ、そうよ。きっと飼い主のところに帰ったに違いないわ」
猫が一匹、現れなくなっただけ。常連客のように支払いをはずんでくれたわけでもないただの猫だ。
気まぐれでやってきて、気まぐれで帰っていったに違いない。本当にそうだろうか、と客は納得いかない顔だ。
「ねえ、猫のことなんて忘れましょう? きっと猫の方だってすっかり忘れているのよ」
こんこんと音を立てて、酒を注ぐ。グラスを差し出し、笑みを貼り付け小首を傾げた。








猫は見付かった。安居酒屋が連なる裏路地の、露塀の隙間に朽ちかけているのを近隣の店の主が見付けたのだ。姿形、毛並みは見る影もなかったが、赤い首輪に見覚えがあった店主が知らせて来た。
ボール紙の箱の中に入れられた猫を渡されて、あなたの猫だと言われてかぶりを振った。
「別に、私が飼っていたわけじゃないわ」
猫を持ってきた店主は、軽蔑するような視線を遣してきた。あなたが引き取らないなら行政にごみとして持っていってもらうことになるのがいいのか、と言ってきた。違うわ、そうじゃない、とかぶりを振る。
「だって私は、この子に名前の一つも付けなかった」
誰か、この哀れな猫のために涙を流す人間が、他に居るのではないかと思ったのだ。朽ちた猫の遺骸を抱いても、振れる心のない自分より、誰か、他に。
だが界隈に猫を探している心当たりを持つ者などない。仕方なし猫を連れ帰り、店の裏に埋めて手を合わせた。それ以上にできることもなかった。
猫好きの常連には、死んでいたわとそのままを伝えた。客は、お悔やみを、と言ってひと包み置いていこうとしたので断った。
ただ誰かに、あの猫のために泣いてほしかった。








猫の使っていた毛布は片付けた。小鉢と皿はカウンターの裏に置いてある。内側に入れば見えるが、客からは目につかない。猫の話をする者は、半年の後にはいなくなった。








あの猫に出会った夜のように、寒い日だった。雪はすでに降り出し、客のいなくなった店で一人でグラスを傾けていた。
少し飲みすぎていたかもしれない。何と無く興が湧いて猫の使っていた皿を出し、トマトを切って盛り付けたりなどしていたのだ。グラスを振ればかろんと氷が鳴る。
猫は、こうして切って盛っても、手からもらうのをいつもねだっていた。誰の手からも貰うのであれば客寄せになったかもわからないが、絶対に一人と決めていたのだ。
「ばかな子……」
呟いてグラスに氷を鳴らす。
「誰がよ。失礼ね」
くすりと笑った独り言にかぶせてきた声があった。驚き顔を上げると目の前にひとの姿がある。
真紅のワンピースの女だ。顎のラインに沿うように切り揃えられた髪は艶やかな赤毛。裾にたっぷりとしたフリルをあしらったワンピースはホールターネックと言えるのか、首輪のようになった襟から前身ごろを吊って背を大きく開けている。誰、と言うより先に、茶水晶の眸が細められて笑った。二の腕までの黒い長手袋に覆われた手が伸べられて、指先が頬を撫でてくる。
「またこんなところで転寝して。風邪引くわよ、っていつも言っているのに」
どうして、と呟いた。目の前の信じ難い出来事を、けれど否定する気持ちはもうなかった。目の前のこの艶麗な美女は。
「貴女……」
感情が薄いと言われ続けてきたのに、彼女には伝わったらしかった。ふふっと無邪気な笑声を立て、そうよ、とうなずいた。
「再会を喜びたいところだけど、ちょっと急ぐの。時間はこの先いくらでもあるし、今は……あ」
視線が小皿に乗せたトマトに留まり、しばし釘付けになった茶水晶は、再びくるりと返る。
「一枚だけ」
丸きり。
猫のころと変わらぬ上目遣いで思わずふいてしまう。赤いトマトのひと切れを指で摘んで差し出すと、身をかがめ、丹花がぱくりと銜えた。
うまそうに咀嚼して嚥下して、ぺろりと唇をなめた。ああ本当に。
「変わらないのね」
まあ、そんなにね。女は、あるいは猫は、しなやかな腕を伸ばし手を差し出してきた。
「行こう、ローレライ。一緒に」
呼ばれて、微笑んで、その手に手を重ねた。

ええ、スカーレット。






『……尚、死因は……と見られ、事件性はないものとして――――